自粛中ですので、少し雑談⑤
2022年2月20日
広島 空き家/移住で地方創生ファンド
■生い立ち⑤
今回も会社員時代の体験について記していきます。
藤居さんの会社は「REGAOレガオ」という会社でした。
前身はF&Fフードサービスという会社でUCが子会社化していた経緯があります。
UC民事再生のタイミングでM&Aをして独立した形になります。
主な業務は、焼肉牛角やしゃぶしゃぶ温野菜などのレインズインターナショナルが持つ飲食ブランドのエリア本部として、直営店の店長や加盟店向けのスーパーバイザー(SV)活動、新規出店における店舗開発を経験させて頂きました。
こちらでは29歳の独立までの4年半在籍させて頂き、UC時代よりも内容の濃い経験をすることができました。
入社して2年間は牛角にて店長業務を。この期間で具体的なオペレーションやシフト作成、アルバイト採用など店舗運営のリアルを経験できたことは、何よりもの価値です。
ここで経験できたからこそ、実務の重要性やトップがそれを知っていることの緊張感、アドバイスの観点からもその後従事する社員やアルバイトへのレクチャーも精度が上がります。
SV時代には、加盟店の社長さんとお話しする機会が増え、価値観が高まる機会が増えました。このころから、「よくも悪くも本当にいろんな人いるな」と身をもって感じるようになります。
私自身はREGAO社員ですので、自社の方針に従わなければなりませんし、加盟店を同じ方針へ誘導するのが仕事でした。
ただそれだけでは衝突してしまうことも想定していましたので、自身が緩衝材になれるように活動していました。
他の担当者では難しい社長さんの担当も回ってきたりする経験もあり、内心「大変だなぁ」と思いながらも、経験値の為、試行錯誤しながらも乗り越えてきたように思います。
この「緩衝材的役割」は独立してからも良い経験になったと感じています。
アルバイトと社員の間に立ち、経営者として緩衝材になることもあれば、他者同士で価値観が合わない時なども、間を持つ立ち回りができることは、自身の成長につながっていたのだと感じることができます。
そんな日々を過ごしている頃、私の祖母が手術することとなり、いよいよ独立を考えるようになりました。
手術の内容は大したものではありませんでしたが、大したことだった時のことを思い、すぐに駆け付けられない働き方をしている(しなければならない)自身は、「人としての生き方」としていかがなものか?を考えるようになりました。
当時、お給料は十分すぎるほど頂けていたので、まったく不満はありませんでしたし、妻にも「もったいないのでは?」と言われました。
祖母の経営する花屋は、その頃には、母が経営を継いでいました。
しかしながら、薄々感じていましたが、食べていけるほどの十分な利益は出せていない規模感ですし、お花はぜいたく品であると私は思っているので、今後も斜陽産業であると感じていました。
ただ、当時50年を超える営業年数を重ね、個人的には廃業にしたくないという思いや、「この場所に花屋がある」という歴史や価値を守りたい思いがあります。
守るためには会社員では時間的に難しいため、独立し事業を軌道に乗せ、直接的ではないサポートの仕方がないのか?を考えたいと思うようになっていました。
そういった背景や事情を会社へ伝え、4年半という長くない期間でも多くの経験を積ませて頂いた環境と藤居さんの度量に感謝し、退職しました。
今現在も花屋は継続できています。
コロナ禍でかなりの打撃を受けているので、本業は維持しつつお花を活用した事業を考えています。
会社員時代(REGAO編)のお話はこの辺で。
次回は個人事業主として独立してからの体験エピソードを記したいと思います。
今回も会社員時代の体験について記していきます。
藤居さんの会社は「REGAOレガオ」という会社でした。
前身はF&Fフードサービスという会社でUCが子会社化していた経緯があります。
UC民事再生のタイミングでM&Aをして独立した形になります。
主な業務は、焼肉牛角やしゃぶしゃぶ温野菜などのレインズインターナショナルが持つ飲食ブランドのエリア本部として、直営店の店長や加盟店向けのスーパーバイザー(SV)活動、新規出店における店舗開発を経験させて頂きました。
こちらでは29歳の独立までの4年半在籍させて頂き、UC時代よりも内容の濃い経験をすることができました。
入社して2年間は牛角にて店長業務を。この期間で具体的なオペレーションやシフト作成、アルバイト採用など店舗運営のリアルを経験できたことは、何よりもの価値です。
ここで経験できたからこそ、実務の重要性やトップがそれを知っていることの緊張感、アドバイスの観点からもその後従事する社員やアルバイトへのレクチャーも精度が上がります。
SV時代には、加盟店の社長さんとお話しする機会が増え、価値観が高まる機会が増えました。このころから、「よくも悪くも本当にいろんな人いるな」と身をもって感じるようになります。
私自身はREGAO社員ですので、自社の方針に従わなければなりませんし、加盟店を同じ方針へ誘導するのが仕事でした。
ただそれだけでは衝突してしまうことも想定していましたので、自身が緩衝材になれるように活動していました。
他の担当者では難しい社長さんの担当も回ってきたりする経験もあり、内心「大変だなぁ」と思いながらも、経験値の為、試行錯誤しながらも乗り越えてきたように思います。
この「緩衝材的役割」は独立してからも良い経験になったと感じています。
アルバイトと社員の間に立ち、経営者として緩衝材になることもあれば、他者同士で価値観が合わない時なども、間を持つ立ち回りができることは、自身の成長につながっていたのだと感じることができます。
そんな日々を過ごしている頃、私の祖母が手術することとなり、いよいよ独立を考えるようになりました。
手術の内容は大したものではありませんでしたが、大したことだった時のことを思い、すぐに駆け付けられない働き方をしている(しなければならない)自身は、「人としての生き方」としていかがなものか?を考えるようになりました。
当時、お給料は十分すぎるほど頂けていたので、まったく不満はありませんでしたし、妻にも「もったいないのでは?」と言われました。
祖母の経営する花屋は、その頃には、母が経営を継いでいました。
しかしながら、薄々感じていましたが、食べていけるほどの十分な利益は出せていない規模感ですし、お花はぜいたく品であると私は思っているので、今後も斜陽産業であると感じていました。
ただ、当時50年を超える営業年数を重ね、個人的には廃業にしたくないという思いや、「この場所に花屋がある」という歴史や価値を守りたい思いがあります。
守るためには会社員では時間的に難しいため、独立し事業を軌道に乗せ、直接的ではないサポートの仕方がないのか?を考えたいと思うようになっていました。
そういった背景や事情を会社へ伝え、4年半という長くない期間でも多くの経験を積ませて頂いた環境と藤居さんの度量に感謝し、退職しました。
今現在も花屋は継続できています。
コロナ禍でかなりの打撃を受けているので、本業は維持しつつお花を活用した事業を考えています。
会社員時代(REGAO編)のお話はこの辺で。
次回は個人事業主として独立してからの体験エピソードを記したいと思います。